弁護士コラム

「裁判外の和解だから『赤い本』8割が通常」といえる根拠はない。

2022.12.31

交通事故の案件では、いわゆる『赤い本』によって損害賠償額が決まります。

『赤い本』こと日弁連交通事故センター東京支部編『民事交通事故訴訟 損害賠償額算定基準』は、裁判で損害額を決めるときの基準を提唱するものです。裁判になる前の交渉の段階でも、基本的には『赤い本』が提唱する基準によって損害額を議論するのが通常です。なぜなら、交渉でまとまらずに裁判になったとしても『赤い本』を基準として訴訟上の和解や判決がされるからです。

ところが、裁判前の交渉では、しばしば、「裁判外の和解なので、『赤い本』の基準で算出した損害額の8割で和解することが通常であり、妥当である。」という主張がされます。加害者側の損害保険会社は、ほぼ間違いなく、この主張をしてきます。

この「8割」が「通常」という言い方には、注意が必要です。

保険会社が裁判外の和解をするときに「8割」というラインを強硬に主張するので、「8割」でまとまる(まとめざるを得ない)事案が多い、という意味では「通常」です。

ですが、8割を「通常」としなければならない根拠はありません。『赤い本』で提唱されている基準は、過失割合にせよ各種損害の金額にせよ、膨大な裁判例の分析によって導き出されたものです。裁判で解決する場合(訴訟上の和解をする場合や、判決に至る場合)と裁判外の和解を比較して2割減額する具体的・合理的な根拠はありません。

この「8割」という基準の合理的かつ具体的な根拠はありませんが、元ネタはあります。平成14年(2002年)当時、東京地方裁判所民事42部(いわゆる「交通部」)の部総括判事を務めていた河邉裁判官の講演録です(河邉義典「交通事故賠償の実務と展望」(東京三弁護士会交通事故処理委員会編『新しい交通賠償論の胎動』(2002、ぎょうせい)3頁以下所収)。

この講演では、以下のように述べられています(前掲・41頁)。

訴訟になった場合のコストや時間をかけないで解決することから、裁判基準から多少減額することが合理的に認められ、落ち着きとしては、裁判基準の8割程度ということになるのではないでしょうか。

この部分だけを見ると、確かに、『裁判官は、裁判外の和解では裁判基準(≒『赤い本』の基準)の8割程度でいいと言っている。』ように見えます。

ですが、法律も、論文も、講演録も、「文脈」が大切です。この文章の前に、河邊裁判官は、以下のように述べています(前掲・39~40頁)。

ある示談の手引きの本に、「訴訟では馬鹿にならない手間と暇、腹八分目で妥協せよ」という助言が出ておりました。確かに訴訟になると、ある程度の時間とコストがかかります。訴訟前に解決するのであれば、満腹ではなく腹八分目が引き時であるというのは、適切なアドバイスであります。しかし、示談交渉の中で保険会社が提示する賠償額は、私の経験では、腹八分目どころか腹六分にも満たず、訴訟に要するコストや時間を考慮しても説明のつかないものが少なくありません。

その上で、河邉裁判官は、大要、以下のように述べています。

  • 裁判外で保険会社が提示する示談金の水準は低すぎる。『赤い本』の6割前後しかない。
  • 被害者側に弁護士がついている場合でも、『赤い本』の7~8割、最大でも8割5分にしかならない。「『腹八分目』に達しているケースは、残念ながら、ほとんどありません。」
  • (損保側の人間である)損保協会の柏井譲二氏も、講演で、『任意保険は、自賠責保険では填補されない損害を填補する完全填補を目的としている。「賠償額水準は、社会的に公平、妥当なものでなければならないから、原則として判例の追随型を目指すもの」と述べている。
  • 保険会社は、裁判外での和解(示談)の場合も、裁判にならなかった場合のコストなどを理由に「裁判基準から多少減額することに合理性が認められ」るから、「裁判基準の8割程度ということになるのではないでしょうか。」

つまり、河邊裁判官は、平成14年当時の保険会社の低額過ぎる示談金の提示に苦言を呈し、『6割といわず、せめて8割までは支払おうよ』という趣旨で「裁判基準の8割程度」と述べています。『8割が妥当』ということではなく、『8割は必須』とも読めます

ところが、河邊裁判官の「裁判基準の8割程度」という言葉が一人歩きし、もはや誰がどのような文脈で述べたかも忘れ去られて、冒頭の「裁判外の和解なので、『赤い本』の基準で算出した損害額の8割で和解することが通常であり、妥当である。」という主張が当たり前のように行われています。この文章を書いているのは2022年(令和4年)、河邊裁判官の講演が行われた2002年(平成14年)から20年を経過しています。

なお、河邉裁判官は、「裁判基準の8割程度」発言の直後の部分で、保険会社に苦言を呈しています。

まず、河邉裁判官は、平成2~3年ころの東京地裁において、「保険会社の提示する示談金が余りに低額であることから、訴えを提起しない者を含め他被害者全体の救済のためには民事27部が損害賠償算定基準を公表する必要があるのではないか、という議論がされたことがある」と指摘します。そして、結局、そうした公表は行われなかったとしつつ、以下のように述べました。

結局、そうした公表は行われなくなったが、「今後、このような議論が再燃することのないよう、柏井氏がお話になっておられたように、保険会社におかれては、社会的に公正、妥当な賠償額水準を実現するよう一層の努力をしていただきたい、と強く希望するものであります。

こうした苦言を呈されているにもかかわらず、「裁判基準の8割程度」発言だけを抜き出して裁判外での和解の基準とする態度は、牽強付会と言わざるを得ないように思います。

※なお、この種の指摘は、既に他の弁護士からもされています。

 

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